うの花クッキー・ブランクッキーの製造販売

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キング製菓のあゆみ

1950年代から、おいしいビスケット・クッキーを作り続けてきた
キング製菓の、創業からのあゆみをご紹介。

1908年(明治41年)~1923年(大正12年)

創業社長がお菓子メーカーに就職

創業者の菰田勝夫は、1908年(明治41年)10月25日、愛知県渥美郡田原町(現在の田原市)吉胡(よしご)に、農家の次男として生まれました。家は長男が継ぐことになるため、自分は手に職をつけようと考えたのでしょう。1923年(大正12年)、田原尋常高等小学校 高等科を卒業すると、すぐに技術見習いとして、当時、全国規模のお菓子メーカーだった岡崎市の東海製菓(1939年に森永製菓と合併)に入社しました。お菓子づくり人生の始まりです。

1925年(大正14年)

工場長として活躍

入社から2年後、勝夫は働いていた東海製菓の第三工場へ転任となります。工場があるのは、愛知県から遠く離れた、栃木県小山市でした。その後も技術を磨き続け、のちに工場長に就任。職人の経験や勘に頼っていたビスケット製造ノウハウを体系化し、大型設備での製造を可能にしました。

1938年(昭和13年)

乾パン製造に携わる

世界的な不況のなか、1931年(昭和6年)に満州事変、1937年(昭和12年)には日中戦争が勃発。日本が海外へと領土拡大を図っていたこの時期、勝夫は名古屋市の渡辺製菓から熱心な誘いを受け、同社に移って軍用乾パンの製造を手がけるようになります。

1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年)

戦地で食糧供給に励む

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が勃発。日本軍のジャワ島上陸に伴い、渡辺製菓の関係者が「ジャワ食糧部隊」に編入され、勝夫もその一員としてインドネシアへ。ジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)、スラバヤといった地のビスケット工場を利用して乾パンを製造し、日本人兵士の食を支えました。そして1945年(昭和20年)、現地で終戦を迎えます。

1946年(昭和21年)

名古屋でパン・焼き菓子製造を開始

ジャワ島から帰還した勝夫は、渡辺製菓を退社し、名古屋市西区でパン・焼き菓子製造の「日産商会」を始めます。社名の由来は不明ですが、セドリック(日産の車)に乗る機会が多かったようです。

当時の製品の記録はありませんが、手製の製造機械を使っていたそう。また、原材料が入手困難ななか、一般の家庭を訪ねてまわり、国から配給される小麦粉や砂糖を買い取っていたようです。砂糖を使わずサツマイモから作る「芋飴」(いもあめ)を商っていたという話も伝わっています。

1950年(昭和25年)

「これからは甘いものの時代」

1950年(昭和25年)に「キング製菓有限会社」を設立。ビスケット製造に本腰を入れ始めます。戦後の混乱はまだ続き、食糧も不足していました。そんな時代だったからこそ、「これからは甘いものの時代」と、人々が喜ぶ食べ物に着目したのでしょう。

「キング」の名は、現在の講談社が発行した大衆娯楽誌「キング」が由来。日本で初めて100万部を突破したこの雑誌のように、国民的なお菓子を届けたいという願いを込めたのかもしれません。

1953年(昭和28年)~1956年(昭和31年)頃

他社の立て直しに尽力

戦後の復興が進み、日本はこの時期から、初代天皇即位以来の好景気と言われた「神武景気」(じんむけいき)に突入。高い技術で作られたキング製菓の製品は人々に好評で、業績も好調でした。

すると、同業他社からの支援を求める声が届くようになります。設立直後に社長が死去した「ヤマモリ製パン株式会社」や、以前勤めていた名古屋の「渡辺製菓」あらため「新渡辺製菓株式会社」の社長を引き受けて、どちらも軌道に乗せ、「業界の名医」と評判に。ただ、家族は勝夫がそろばんをはじく姿を見たことがないそうですから、経営よりも、技術面で手厚い支援をしたと想像できます。

1958年(昭和33年)~1965年(昭和40年)頃

「お菓子の総合メーカー」をめざす

高度経済成長期に入った1958年(昭和33年)、「キング製菓株式会社」に改組しました。
この当時は、「お菓子の総合メーカー」をめざして、具材とあんこを別々にパックした「あんみつ」や、ピーナツにチョコレートをかけた「チョコピー」など、ビスケット以外の商品にも挑戦しました。
ビスケットでは、形で遊べる特徴を活かし、白やピンクの砂糖でコーティングした動物や飛行機の形の「ヨーチ菓子」、アルファベット形の「英字ビスケット」などを製造。また、バニラなどのクリームをサンドした「サンドビスケット」をいち早く製造し、名古屋菓子業界にサンドビスケットブームが巻き起こるきっかけをつくりました。有名メーカーが発売したのとほぼ同じ時期に、ドイツから機械を輸入して、細いスティック状の「プレッツェル」を作り、アメリカ統治下だった沖縄にも「輸出」していました。

1958年(昭和33年)~1962年(昭和37年)

業界団体の発展に貢献

この時期以降の勝夫は、名古屋焼菓子組合理事長や、愛知県菓工連・愛菓総連の理事などの職務を引き受け、業界の発展のために働くようになります。
1962年(昭和37年)には、愛知県菓子工業協同組合設立の際、理事長に推薦され就任。ほかにも、1960年(昭和35年)には、愛知県菓子食品工業試験所の焼菓子の部に含まれていた豆菓子を独立させ、「煎菓部」として新設。設備充足委員長に就任しました。豆菓子に関わることになったのは、当時、「チョコピー」を製造していたためでしょう。
また、1961年(昭和36年)、第十五回全国菓子博覧会を名古屋で開催した際には、財務局長を務めました。

1966年(昭和41年)

ビスケット生産を増強

1958年(昭和33年)、三洋ビスケット枇杷島工場を買収。これにより、長いオーブン内のコンベアでビスケット生地を流しながら焼く「流れ生産」ができるようになりました。一方、名古屋市の本社工場ではプレッツェル、チョコピーを製造しました。
この枇杷島工場が、東海道新幹線の用地買収エリアに入ったため、1966年(昭和41年)、小牧に移転。新しい工場には、勝夫の考えを設計に盛り込んだ、長さ30mもある大型のオーブンを導入しました。稼働後は、真夏の暑い日でも、自ら工場内で社員に指導。気温や湿度が左右するビスケットづくりの技術は、こうして直接、創業者から現場の技術者に伝えられていったのです。

東京から四国までの販売エリア

1967年(昭和42年)の資料によると、当時の販売エリアは名古屋を中心に、愛知・岐阜・三重の東海3県のほか、西は大阪や四国、東は東京まで 。食品卸会社を経由して売られたほか、消費者への直売も ありました。
また、勝夫の長男である2代目社長の菰田幹雄が生前に話したところによると、一緒に行商をして歩いたこともあるそうです。

1988年(昭和62年)

菰田勝夫が生涯の幕を閉じる

1988年(昭和62年)5月14日、勝夫は、病気のため入院先の病院で死去します。享年80歳。翌5月15日午後7時から名古屋市西区宗圓寺で通夜、5月16日正午からは葬儀並びに告別式が執り行われました。社葬として、愛知県菓子工業組合事長であった林直温氏が葬儀委員長を務めました。

1996年(平成8年)

ロングセラー「うの花クッキー」誕生

キング製菓の人気製品「うの花クッキー」は、もともと自然食を扱うお客様企業ブランドの製品でした。「おからを使い、乳製品や卵といった動物性原材料を使わないクッキーを」と依頼され、水分を吸収するおからのコントロールがとても難しい中、苦心の末にレシピを開発。インターネットの普及とともに、口コミで評判が広がって売上が拡大しました。
ところが発売10年後の2006年(平成18年)、その企業が経営困難に陥ります。販売会社からは「作り続けてほしい」との声が寄せられ、当社が商標の問題をクリアし、キング製菓ブランドで製造を続けることとなったのです。

1998年(平成10年)

有名メーカーの製品を生産

1990年代後半あたりから、有名メーカーのブランドで販売されるビスケットやクッキーの委託製造が増えていきます。現在は廃版となった、短いスティック状のビスケットにチョコレートをかけた「フィンガーチョコレート」は、最初は中身のビスケットだけを製造し、のちに全工程を手がけました。昭和初期に発売された乳幼児向けビスケットの製造は、現在も続いています。ほかに、テーマパークのお土産用のサンドビスケットや、グラノーラに入れる砕いたチョコレートビスケットも製造しています。
ちなみに、乳幼児向けの製品は、原材料や不良品に対する基準が、大人向け以上に厳しいんですよ。

現在、そして未来へ

創業者の技と思いをこの先も

子どもが楽しめるお菓子から、赤ちゃん向けの栄養に配慮したビスケット、大人にも人気の「うの花クッキー」と、キング製菓はビスケット・クッキーを強みに、時代に合った製品を提供してきました。最近では、病院食用なども手掛けております。入院中はなおさら、おやつの楽しみが大切ですからね。
これからも私たちは、創業者の菰田勝夫から現在の社員へと受け継がれたビスケット・クッキー製造の技術を大切に守り、安心して食べられる、おいしくて安全なお菓子を、多くのみなさんにお届けしていきます。

お出かけにビスケット・クッキーを1パック

日持ちがきくビスケット・クッキーは、いざというときの非常食にも最適。お出かけのバッグに1パック入れておけば、帰宅困難時など、まさかのときも安心ですよ。